代表小若順一が月刊誌に連載していた「安全基金の活動と考え方」です。
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「みんなで原発廃止の声を」 安全基金の活動と考え方(64)

 1979年3月28日夜、アメリカ・ペンシルベニア州のスリーマイル島原発で放射能が漏れる事故が起こったとき、 私は翌朝9時に通産省原子力発電課へ押しかけました。
 当時は官庁への出入りは自由。何の制約もなく部屋まで行けたのですが、部屋にいたのは、お茶くみの若い女性たちだけ。 そこに、私を含めて3人の若手反対派がいたのですが、肝心の課員が誰も出勤してこないのです。 最初に課員がやってきたのは10時前。それから、ぽつぽつと出勤してくるのを見ながら、「こりゃあ、日本の原子力はダメだ」。
この事故でアメリカの原発推進は30年もストップしたのですが、日本は通産省も専門家も、「たいした事故ではない」と言って原発推進を続けたのです。
事故から5年を過ぎたころから、実は重大事故だったという情報が出てくるようになり、10年を過ぎると、 炉心の半分前後が溶けて原子炉の底に落ちていた写真が出てきて、推進派も「危機一髪の事故だった」と平気で言うようになりました。
 1986年4月にソ連でチェルノブイリ原発事故が起きたときは「原発の型が違うから、このような事故は日本では起こりえない」と推進派は言って、原発を造り続けました。
 2007年7月に、柏崎刈羽原発が直下型地震に襲われ、敷地内の道路がうねって使えなくなり、建屋が傷つき、外部のパイプ類が破損し、 変圧器から火災が発生したときも、「重大事故が起きなかったのは安全な証拠」と言って、原発の再稼動にこぎつけ、輸出振興の口実にすらしました。
 今回も東京電力は、停電のお詫びや、節電を訴える全面広告を新聞に出して、マスコミ支配を強めています。 原発は高額のお金が動くので、「うまみ」も巨大です。政府も電力会社の上層部も、 推進派の専門家も、何千万人もが放射能に被爆するような重大事故が起きない限り、原発推進を放棄する意思はまったくありません。
月刊誌「食品と暮らしの安全」264号3〜4ページで述べたように、間違った発言や、ウソをつくのも平気です。 事故現場で社員や協力者が命をかけて奮闘するのを見ながら、相変わらず自分たちの権益や、うまみを守ろうとしています。 欧米各国では、原発推進を一時止めて、問題点の検討に入りました。  反原発運動の国際的うねりも、フクシマゲンパツを契機に高まっています。
3月15日夜に、静岡県東部を震源地とするマグニチュー ド6.4の地震が発生して、最大震度6強を記録したのに、東海地震の震源域の真ん中にある浜岡原発は、相変わらず運転を続けています。 日本も、浜岡を手始めに全原発を止める活動をしていく必要があります。
 私は、事故が起きた11日の深夜、三五館の社長に「意見広告の代わりに『放射能で首都圏消滅』の広告を出したい。費用は折半で」とお願いして、3月18日の朝日新聞に広告を出しました。
 みなさんも、いろんな方法を使って原発を止める声を広めてください。

食品と暮らしの安全 代表 小若順一
2011年4月1日発行 No.264より

安全基金の活動と考え方(65)「「フクシマ」の映像作品を作ろう」


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